Brand Story

お菓子で人々を幸せにする、その想いから新杵堂は始まりました

1948年 創業

創業者である田口由松(よしまつ)が中国での戦争兵役を全うし祖国日本に帰還した時、毎日習慣を生き延びるのに必死で人間としての幸せを感じられる余裕もなく日々生きてゆく中で当時は高級品であった『甘味』つまりお菓子を皆さんが気軽に楽しむためには自分たちが作って販売していこうと決意し、同業他社様の温かいお心に甘え修行させて戴き『お菓子で人々を幸せにする』を想い、一歩を踏み出す。

当時は、家内業であり妻である田口八千代と親戚皆で肩を寄せ合って日々一生懸命にお菓子を作り、一生懸命に販売していった。

創業の想い

自分たちの心を癒して幸せにしてくれるお菓子で『人々を幸せにしたい』と決意し苦難と激動の時代を乗り越えてゆく。

昭和初期

中津川それは新杵堂の創業地である岐阜県中津川市に流れる川で山々の自然の恵が豊富にありながら癒しを時代とともに新しい商流が通過する地点でもあった。

江戸と京都の中心にあり、いろんな商売を目の当たりにして皆様にお菓子を御贔屓戴いていたとも伝承されています。

新杵堂の由来

創業者である由松が戦地にいる時に『新杵』という甘味屋だけが激しい空襲の中でも生き延びているのをずっと心の中で大切にしまっていた。

そして中国戦地から船で日本に帰還した際に流れ着いたのが『大分県にある臼杵町』で、また『杵』に出会ってご縁を感じ『新杵堂』と命名し継承されています。

困難からの新挑戦

戦後であることから何もないところから創業しています。

原材料を購入する資金がありませんから農家の皆さんを自分の足で周り皆さんから少しづつ戴き、製造機械もないため自分たちで開発してお菓子にして販売していました。

1955年 さらなる苦悩

苦しい生活が少しづつ改善しつつあった経済環境の中で、第二次世界大戦に影響もありさらなる苦悩が次から次へと押し寄せてくる。

しかし、どんなに苦しい生活で食事さえもできない時でさえも1日1回の家族での食事がすべてを忘れさせてくれてお菓子に没頭でき、その時に苦しみで学習した忍耐と我慢から生まれる謙虚さが企業理念をさらに想う原動力となったと創業者から継承されています。

戦後

今では考えられないほどの貧しさと厳しい生活環境であったため、身内だけでなく親戚も関係者もみんなで肩よせあって灯火を消さないようにしていた時期で、この時に心の底から『お菓子で人々を幸せにしたい』と想い、現在の新杵堂グループの企業理念となっているのは言うまでもありません。

災害との戦い

九州は温暖な気候と海水風が恩恵となる反面、洪水など甚大な自然災害も多発している地域でもあったため京都そして本社のある岐阜県中津川と転々と移住し、昭和23年から中津川の地で災害との戦いをしながらお菓子と格闘する日々が始まります。

試行錯誤の連続

戦後で何もないゼロからの新挑戦のため、成功事例も失敗事例もなく、試行錯誤の連続こそが生き残る唯一の手段であると信じてあらゆる挑戦を、将来の幸せを願って家族としていました。

1960年 継承

世の中が日々激変する時でもあり、今までのお菓子作りを見直し『生菓子』つまり賞味期限が超短期間である商品づくりへの転換期となりました。

そんな創業者の経営判断を継承し二代目である田口韶男(よしお)が店主(代表)に就任し、陣頭指揮を執って進み始める。

新杵堂のお菓子のはじまり

創業者である田口由松が日本に帰還して大分県に帰還した際、お菓子を作りたいと思っても自分たちが生きていくのが必死で原材料を仕入れる余裕はなかった。

そんな時に、大分県や九州で出会った皆様に本当に良くして戴き祈りを繋いで戴いたご恩が、私たち新杵堂のお菓子の原点となりました。

九州は温暖な気候と海水風の恩恵もあり栗をはじめ豊富な農作物が収穫されており、それを使ったお菓子『栗きんとん』のはじまりでもあります。

中津川の栗

冬と夏の気温差が大きい地でもある中津川は栗の栽培に適しており当時は栗林が広大に広がる土地であり、そこで収穫される栗たちを栗きんとんや栗饅頭んあど栗商品として製造加工し、地元および国内大都市圏への販路拡大を始めた時期でもあります。

お菓子の原点である種

私たちの故郷は自然豊かであるため、水が綺麗で、寒さと暖かさの差が大きくお菓子の原点となる種が育つ良い環境があります。

1989年 競合激化

経済成長とともにお菓子の需要領域の拡大とニーズの変化が目まぐるしく変動してゆく中で、同業他社様の台頭と異業種企業様のお菓子業界へのお参入が続出し既存ビジネススタイルでは到底太刀打ちできないという危機感を持ち続けた時期でもあり、新主要経済圏の創造と新商品開発力の強化に動くと同時に採用も積極的に行う。

新しい思考を持った人財の採用

創業から家内業で経営してきましたが新しい思考や能力を持った皆様に参画戴きながら新挑戦をしてゆく決断をしリクルートと同時に採用も積極的に行う。

世界が激変してゆく予感

お菓子を食すという行為が大衆化され販売領域は広がって確立するようになってきたため、競争は激化してゆきます。美味しいだけで販売時代から付加価値がなければ美味しくとも売れない新時代に激変する予感がしていました。

激変に適合してゆく決断

創業者である田口由松は世界の激変を感じ『シリコンバレー』に何度も足を運んで「将来はコンピューターが大衆化されてお客様に来店戴くのではなく、世界に貿易で輸出して商品を届けるんだ!」と夢を叫んでいました。それが現実となっています。

1990年 激変への挑戦

インターネットの激震化と同調するようにお客様のニーズ領域は未知なる広がりを見せてくるじきで、ご満足戴くにはまず過去の自分たちの経験や思考を全否定し激変する世の中に適合していかなければ自分たちのお菓子をお試し戴くことさえもできなくなるという危機感が急激に増幅していた時期でもある。

田口和寿が株式会社塩野へ入社し修業(1990年~1995年)

二代目である田口韶男から「今までの常識を超絶超えるような激変への挑戦をしなければ生き残るとかではなくゼロになる可能性さえある」との危機感満載の想いを受けてこの年から『異常’なまでの逆説言動からしか感じられないことへの追求』を始める。この時期、菓子修業と言えば『京都』での修行が一般的だった時代に『礼儀作法に厳しい・東京・高価格商品販売・昭和23年創業・店舗販売・宮内庁への納品』という今後、自分の人生においても重要となるキーワードにてたどり着いたのが株式会社塩野でどうしても入社したく、恩師に何度も何度も何度もお願いをして塩野の高橋社長にお願いして入社させて戴いた。赤坂という日本政治の中枢地域で住み込みをさせて戴き、時の流れをじっくり5年間生かして戴きました。

田口和寿が渡米し米国ニューヨークで修行(1995年~1999年)

当時、米国ニューヨークでWIN95が発売され激変してゆく映像をTVを通じ流れてゆくのを『現地でITを感じたい』と、いてもたってもいられなく塩野5年目の春に退社をして1週間後には、片道切符でたどり着いたマンハッタンに退職金5万円と少々の荷物を持った自分が立っていました。1秒ごとに刺激的で自分の思考や常識がどんどん変化し更新されてゆくのを体感できる暇さえない瞬間でっもあったと振り返ります。

マンハッタンでの出会い

意気込みだけで渡米したため住居を仕事もありませんから、毎日、公園での寝泊まりで食事も他人様から恵んでいただく生活を続けていました。心をは豊かでしたが体はボロボロで弱って公園で沈んでいる時に声をかけてくれたのがLGBTであった皆さんです。他人であり外国人で信用もお金もない私を自宅に招いてくれて食事させてくれ、最初の食事が『なぜか甘い野菜スープ』だったのを思い出します。そんな彼らや関係者皆さんからの紹介でイーストビレッジにある人気店『ISO』でパティシエ兼雑用担当として採用してもらうことができました。
マンハッタンでの生活の始まりであり、奇跡の始まりです。友人や職場の同僚も全員がLGBTという環境であっても違和感なく、本当によくしていただきました。田口の英語が、少しばかり変わった英語であるのはそういう影響があるのかもしれません。

1998年 新枠堂としてインターネット通販EC事業として楽天市場へ出店

マンハッタンにいながらインターネットでの販売の中心地であるマンハッタンにいるため、すぐにインターネット販売を開始し、自分たちでお菓子を作って販売を開始するのと同時に、日本から遠隔で楽天市場へ出店し、販売をはじめました。

田口はマンハッタンから本社にいるスタッフと情報共有しながら国内への配送をしていたわけです。

新朝鮮の場を世界へ

インターネットを使って挑戦しなければ成長できないどころか生き残れないと危機感を強く抱いて世界への挑戦を始める。

有限会社新枠堂へ組織変更し、田口和寿が代表就任(〜2000年)

まず自己資金で新組織へ移行し、役員・株主には家内業からの脱却への一歩として身内がいないという状況にする。

株式会社新枠堂へ組織変更し、田口和寿が代表取締役就任(〜2002年)

銀行系ベンチャーキャピタル・投資家など15社から資本増資、金融機関から直融資を受ける。

株式会社サラダコスモ本社跡地に本社工場建設移転(〜2004年)

株式会社サラダコスモ中田社長に株主にご就任戴きましたご縁から新工場の移転を実行するが、当日従業員は社員3名とパート2名の5名のみ。

銀行系ベンチャーキャピタル・投資家など13社の保有株式を田口和寿が個人にて買取(〜2010年)

経営判断のスピードと経営判断の独自性を確立するため実行。

2013年 百貨店への出店とその後の悲劇(2013~2015年)

さらなる成長をめざして国内主要都市にある百貨店の12箇所への出店を行いました。
(名古屋・東京・京都・大阪・博多)
しかし、店舗運営能力がなく結果的に全店舗赤字経営となり2年後に余儀なく完全撤退を決断する。

総額3.5億円の特別損失を計上し、すべての新事業停止および経営見直しをせざるえない状況となる。

すべては社長の判断ミス

だからこそ責任は社長にあるということで大きな赤字になりましたけれども、社員解雇は絶対にしないと決め、すべての責任を会社と私で取りました。決断後には大きな苦しみと苦悩の連続で乗り越えてゆくのに必死でした。社員には絶対に復活する!と宣言していましたから、負けるわけにはいきませんでしたから、全精力をかけて生き残りました。

完全撤退の決断

大きな失敗から光が見えてきた瞬間にすべての店舗と関連施設での販売から完全撤退をしました。もちろん社内社外から賛否両論ありましたけれども、決断していましたから迷わず完全撤退をし、インターネットをつかった販売に完全移行をしました。

大きな特別損失からの奇跡

倒産寸前の危機が日々やってきますから社内でもやめる社員が多くいました。しかし、辞めないで私を信じて残ってくれる社員もいましたし、退社しても戻ってきてくれる社員もいましたし、新しく入社してくれる社員もいました。必死にやっていれば奇跡は起こせるし、奇跡に繋がる軌跡は残せると学びました。

2015年 再起のために新領域への販売菓子(2015年~2019年)

高速道路サービスエリア・国内主要駅・国内主要空港にあるショップの一部にて商品販売を開始し、固定店舗ではなくカメレオン的に現地環境やニーズに適合した商品と販売手法を施してゆくことで上記補填をしながら成長エンジンとなる。

世界への販売戦略の一環としてイスラム圏での販売を視野に入れた『ハラル認証』取得しマレーシア・ドバイへの輸出開始(2019年)

近い将来、世界の35%つまり約30億人がイスラム教徒になるという世界情勢をニューヨークで体感した経験を生かし『ハラル認証』取得し、本社工場にて製造する『ハラル・スイーツ』をイスラム圏に輸出する事業をはじめております。

国境や宗教を超えて企業理念『お菓子で人々を幸せにする』を具現化するためででもあります。

北米拠点としてカナダ・バンクーバーに現地法人設立し栗きんとん・ロールケーキの現地販売を開始(2020年)

創業者である田口由松が世界拠点のひとつとして継承していたのが『カナダ・バンクーバー』です。

昭和中期つまりカナダドルが高騰していた当時に、これからは『カナダ・バンクーバー』だと信じて通っていたのもそのためです。

そんな想いをうけて現地法人設立と幹部採用にて現地での販売そして現地企業との業務提携からの現地流通大手企業との取引もはじまりました。

2020年 北海道十勝に『新杵堂十勝農園』を新設し現地栽培農作物を本社工場で加工し国内・世界への販売開始(2020年)

仕入れるだけではなく、自分たちで実際に栽培して収穫しながら加工そして販売まで一貫して行う6次産業への挑戦をはじめます。

本社工場をHACCP仕様工場にするため大規模工事をおこない進化する販売領域拡大に対応可能なハード面の整備(2020年)

いままで通常販売できた販売領域は激減し、新販売領域は超絶急増しており、これはお客様の思考変化と安心安全のさらなる要望でありそれを私たちは感じて具現化しなければ、企業価値は下がるどころかゼロになるという先代たちの想いを継承し、新会社創業以来の大規模工場つまり投資を今こそ実行し、お客様・法人取引先様・納入会社様・従業員そしてすべての関係者皆様に御信用いただける環境創りを加速してゆきます。

異次元への扉が開こうとしている

グループ代表田口は『お菓子には無限の可能性が世界にある』と重要な会議のたびに言ってるのは何かを予感しているからかもしれません。

ロールズニューヨークの誕生秘話

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